ツキノヤ

日々、地道に落ち着いて育ててゆくことなど。グレーゾーン、「気になるタイプ」の早生まれ新小5と暮らしています。

胡散臭い希望

希望を持つべきだとか、希望は生きる力を与えてくれるだとか、小学生のころにはもう聞いたことがあったように記憶している。希望を目標という単語に置き換えても差し支えないだろう。

 

希望はなんですか。目標はなんですか。なぜそれを志望するのですか。このような問いをしばしば投げかけられることで、希望や目標を動機にして懸命に努力することが望ましく、そうすることで自分を承認できるとでも思ったのかもしれない。

 

どうしても手に入れたいものがあって、それのために努力を積み重ねもすれば駆け引きもする。そうして次第に近づいていく。そういった過程は時に快感だった。快かったのは欲望を持つことなのか、手に入りつつある状況なのか、手に入れようとする過程なのか、十分な検討は行わなかったけど。

 

あるころ、憂鬱な気分が続き無気力が日々を浸食しようとするとき、このままではダメだろうと恐怖に駆られた。なにか動かなくてはと焦った。動く気力も無いのに。

 

無理矢理にでも動くために、希望とか理想といったものを使おうとした。ちゃんと興奮して動けるのだった。といって、すべてが周囲の理解を得られたり順調に進んだりするわけがなく、どんな過程も楽しめるようなハイな気分でいられるわけでもなく、進捗の僅かな遅延にも苛立った。それに大人の計画は頓挫だってする。夢破れて山河のあることさえ忘れた。やがて、希望で駆動して忙しくすることを信頼しなくなった。

 

無理矢理な希望は、欲望を伴わない胡散臭い希望だったのだろう。