ツキノヤ

日々、地道に落ち着いて育ててゆくことなど。グレーゾーン、「気になるタイプ」の早生まれ新小5と暮らしています。

「いつか見た青い空」: おんなじ青い空のしたで観察されたこととして。 -1-

「いつか見た青い」は、教会があり女の子ばかりが集まる養護児童施設で、一歳から暮らしていた作者の回想として描かれる短編集です。児童養護施設が舞台となっているのですが、心温まる所謂「いい話」とは少し違うし、過激な描写から引き起こされる娯楽としての興奮を楽しむタイプの作品でもないです。

 

前置きに「愛する姉妹たちへ」とあることから、この短編集は施設で暮らす少女や過去に施設で暮らしたことのある女性に向けて描かれたものであると思われます。だとすれば、この短編集が、そのような少女・女性にとって、読後にわだかまりが緩和されうる作品だと想像することは易しい。けれども、どういうわけか、施設が未知の領域であったわたしにもまた、読みながら何かがリリースされてゆくような心地よさがあったのです。その不思議さのことを書きつけてみたく。

 

 

◇リリースされてゆく感じは、明らかになることからくる

 

読んでいてリリースされてゆく不思議さは、自分では気づかないうちに内面化していた、施設についてのイメージ(あるいはイメージの欠如)が冒頭から幾度も覆されるところから始まりました。異質さが交差する点に、小さな事件や違和感や意外さが発生します。

 

作品の主人公「さり」は小学二年生で、ともに暮らす施設の子らと、施設暮らしではない級友らとの異質さにも気づいていきます。異質な存在が幼い彼女に体験させる小さな脅威は、ときに大人の視線から仕組みを明らかにされることで解きほぐされます。施設のことを回想して描く作者と、施設について未知でありながら怖そうだと偏見を持つわたしと、もまた異質な存在の交差する点です。

 

異質さの交差を、脅威として防衛過剰になることなしに、リリースされる感覚で読みすすめていけるのは、見ていると安心する絵に導かれるからでもあります。

 

 

◇未知の領域を、絵に導かれて読む


教会のある施設で暮らす「さり」の生活空間は、養護施設に馴染みのない者にとって未知の領域です。家庭が千差万別であるように、施設ごとに雰囲気は違うのでしょうから、他の施設にいたひとにとってもまた、未知かもしれません。未知の領域にある空間を、わたしたちは適切に想像することができません。それを扱った事件や関連するフィクションを経由して、偏った認識を持ちやすくなります。

 

さて、「いつか見た青い空」は、異質さや異様さを前面にする絵ではなく、清潔で綻びのない服装、少女たちの多彩な表情、ひろびろとした庭、厳しくも優しいシスターなど、少女らが成長する場所として、ある意味では望ましいとすら思えるような暮らしが描かれます。それによって、其処が別の次元の空間なのではなく、地続きの何処かなのである、という印象を受けます。

 

作品中の、空中のどこかから、初夏の木々の枝の下にいる「さり」たちを眺める構図を見ると、ゆっくりと静かに呼吸をしながら大事なものを覗きこんでいるときの見かたになりますし、青い空の下にひろがる奥行きのある場所に少女らが描かれる場面では、遠くから目映ゆいものを眺めているときの構えになります。この、絵に導かれて見かたが変わってしまう働きに誘われているうちに、異質なはずの「さり」たちの空間へと招き入れられています。