胡散臭い希望も希望のうちだが
前回の投稿では「胡散臭い希望を抱いた」と書いたし、希望ベースで日常を駆動していくことの無理矢理さを感じていることを書いた。
ところで愉しみのために読んだ本に、こんなことが書かれていて、うまく理解できずに困った。
ビルブリングは、うつ病とは「自己評価の低下、極度の絶望感、激烈かつ広範にわたる機能の抑制」によって特徴づけられた自我の状態であるとした。
自分には価値がある、愛されている、感謝されている、能力がある、善良であるなどといった自我の理想に基づく何らかの希望を達成できないと、うつ病が生ずる下地になるというのだ。
正直、最初は了解できずに反感を覚えてしまった。しかし、ひとが打ち明けてくれた話や読んできた本に書かれていたことなどを思い返してみれば、理想や希望によって上手い具合に舵取りができるようになったケースというのも多々あるようなのではある。つまり、希望があるから上手くやれる場合もあるし、希望があるから却って行き詰まってしまう場合もある。
なるほど、常に絶対的によい効果を持つものはなく「馬鹿と鋏は使いよう」ということわざがあるように、希望もまた持ちようなのだとも言えるのだろう。それならば、胡散臭いと感じた理想や希望は、不適切なそれらであったと導ける。もちろん、不適切な理想や希望にだって有用な効果はあって、それらは不器用なやりかたで私を守ってくれもしたのだろうが。