ツキノヤ

日々、地道に落ち着いて育ててゆくことなど。グレーゾーン、「気になるタイプ」の早生まれ新小5と暮らしています。

不可視な部分があって、それが怖いかもしれなくても、平気。

ジョハリの窓、というマトリックスがあります。縦に二分割、横に二分割して、計四つの象限があるとします。四つの象限は、

  1. 自分にも他人にもわかっている自分
  2. 自分にわかっていて、他人にはわかっていない秘密の自分
  3. 自分では気づいていないけど、他人にはわかっている無自覚な自分
  4. 自分にも他人にもわかっていない、知られざる自分

の四つに分類できます。

 

ジョハリの窓wikipediaはこちら
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%81%AE%E7%AA%93

 


ここで唐突に、個人的な話になってしまうのですが、わたしは「4. 自分にも他人にもわかっていない、知られざる自分」を小さくしたい、何故なら自分をより完璧に操作して支配することで、より効率的に物事を扱いたい、ということを短くない期間に考えていました。自分のことを「物」事として扱おうとする態度には、今では疑問を感じつつもあるのですけど、また別の日に。理解できれば扱えるようになる、という発想自体は、書籍による影響を大いに受けた結果なのだろうと想像されます。


その、操作したい支配したい、という目的は、コントロールできない領域に対する圧倒的な恐怖感があるのでしょう。自分についても、他人についても。

 

けれども。自分でも他人でも、完璧に理解する、という理想に現実味はあるのでしょうか。

「わたしは自分のことを完璧に解っています」といえば、押し殺した欲望があるんじゃないかと疑いたくなります。制御できる部分だけを自分だと思ってるんじゃないの、と。

「わたしはあのひとのことを、あのひとはわたしのことを、完璧に解っています」といえば、理解度を完全に測る物差しがないのに完璧だと評定するのは、綺麗な夢への逃避ないんじゃないかとも、思われてしまうのです。

 

完璧に理解できる、あるいは完璧に近いレベルに近づけていく。そういう発想から、ジョハリの窓を捉えていたのです。それが間違っている、と言いたいわけではないです。応用編として、そういう取り扱いは可能なのでしょう。

ただ、骨格により近い部分を探ろうとすると、4つの象限がある、ということが基盤にある、と見ることもできそうです。本のなかで読んできたように、それぞれの象限の大きさを変化させることは、可能でしょうし挑戦のしがいもあるのでしょう。ただ、そうやって操作することを目的とするときに、「知られざる自分」がそもそも存在しないことにしたくなってしまう、そのことに危惧を感じるわけです。

どこかの時点で完璧に把握することができたとしても、たとえば経年変化や不測の事態などを考慮すると、どうしても知られざる領域は生じ続ける可能性があります。だとすれば、知られざる領域は当り前に有り続ける、という見立ても成り立つのだと思われるのです。

 

あるのが普通の何かを怖がることについて、また別の日記でも考えてみます。