ツキノヤ

日々、地道に落ち着いて育ててゆくことなど。グレーゾーン、「気になるタイプ」の早生まれ新小5と暮らしています。

コミュニケーションの技巧が停止された場に居てみたことの感想

先日、初めて会ったひととの時間の流れ方が印象に残っているのでメモを残しておこうと思う。

要点は以下の3点。
・言葉と沈黙を記録されること
・コミュニケーションの技巧の停止
・素の風景に立つこと

 

<<言葉と沈黙を記録されること>>

わたしの言葉と沈黙を記録していくそのひとは、にこやかに微笑むのでも頷いて見せるでもなく、内心に湧いている感情の種類はどれの筈だと特定することは難しいのだけれど無表情であるというにはフリーズする理由を持たず、無関心を演じるほどの操作性も感じとれないような表情をしていた。器などを写真に撮るときに背景に使われるごく淡いグレー(被写体の色が映えるのだと聞いたことがある)、あるいは透明、色に例えるなら、そういう声だった。声を色で感じることも、それが何よりも光を感じさせる透明であることにも、表情にも声にも出さないままで、驚く。

興味のあるひとの、文章を読める、運が良ければ音声ファイルも聴ける。気に入れば二桁の回数で反復もする。会うことには、たとえば沈黙や言い淀み、たとえば背中の姿勢保持の様子や、指先の落ち着かなさ、視線の強さや控えめさや揺らぎ方、それからもちろん見た目や匂いに表れてくる身体の状況などに触れることのできる新鮮さがある。生身のひとが目の前にいることには、銀色のトレーで運ばれてくる脚付きのガラスの器の上のゼリーが震えてるような生々しさがある。そして、次の段階の喜びとして、どちらかの投げかけた言葉や仕草に対する反応があるのだと思う。


<<コミュニケーションの技巧の停止>>

言葉を交わすことが予測される状況で、相手への関心を強調したり、自分の優位性や個性的であることを示そうとしたり、快楽を与え得るという誘惑をほのめかしたり、が感じとれない雰囲気作りが異質なものに感じられた。そういう種類の方向付けの技巧によって演出された楽しさや安心感に、乗せたり乗っていったりすることで効率的にやりとりをすすめていくケースが合格点だと自覚ないまま見做していたのかもしれない。

相槌も鸚鵡返しも質問も表情や目配せによる共感アピールも不在の、ただ語りと沈黙とを記録される状況に馴染んでゆくと、促されずとも言葉は少しずつ出てくることが解ってきた。

コミュニケーション上の技巧と言われるものを停止したひとの前で、わたしもまた自分の技巧を停止した。「どんなふうに」伝える、という勢いに乗っかれば自分の演技に誘われて興奮した言葉が少しはスムーズに出てくる。けれどもその時間には、ただ単純にシンプルに伝えはじめる。話し上手・聞き上手として振舞うための技巧と、そこから導かれる興奮とを停止した場は、観察すること・開示すること・躊躇すること、が技巧以前のより基礎的な領域にあることをわたしに意識させた。

気持ちよく滑らかな興奮を得て量を語れるように、技巧を使ってほしい、関心をあからさまに提示してほしい、と思わなかったわけでもない。でも、たぶん、あの場では、そういう誘導によって促された言葉には意味がなかったのだろう。話したいことを、責任を他人に渡さずに、目の前のひとに伝えてゆくこと、観察させること。それを重ねていくと、物足りなさは期待値の高さだったのかもしれないという仮説が浮かんできた。

過剰な応答を出してこないひとの前で、印象付けようという意図を無意味に感じて、伝えたい内容とわたし自身の全体を観察させる言葉を探しはじめていた。操作を放棄した状況では、他人の儘ならなさも消失する。

<<素の風景に立つこと>>


技巧を使うことで、日頃感じているのとは違う地平に立つことを、コミュニケーションの楽しみにする面が大きかったのかなあ。疑ったこともなかったけど。

凄く基本的なこと、ひとを捉えようとするときに、大まかな骨格から捉えていくとよい、枝葉のひとつひとつに捉われてしまうと個人の全体を見られなくなる、常に全体のなかのどの枝葉であるかを意識するとよいのだと、ひとを見る幾つかの職業のひとに教えられたことがある。どこを骨格とするのかは、職業によって違うのだろうし、それによって見えてくる全体像も違ってくるのだろう。

日常と興奮の落差に満足を感じる、というループからの距離を保っていると、数多くの色鮮やかな花を落としていた風がやんだあとの場所で、ただ地表を眺めているような静けさがあった。その感覚は、ふと気になった駅で途中下車して知らない町を歩くときの「何者でもない」気楽さと似ていた。地元を歩くときには、挨拶すべき相手や隣近所の小さな異変を探し続けて過剰に情報を読みこんでいる。知らない町では、ただ呼吸して歩いて、歩くときには足裏に柔らかさや滑り具合を感じながら、是非も評価も形容詞も付与しないままで時間が流れてゆく。