ツキノヤ

日々、地道に落ち着いて育ててゆくことなど。グレーゾーン、「気になるタイプ」の早生まれ新小5と暮らしています。

日記書き・準備室 -2- 1/2成人式と、これから。

ちいさいひと(10歳)は、家のなかの薄暗がりや、そこに潜むだろうオバケを怖がっている。オバケを、理屈上はいないと考えつつも、想像してしまうと怖いと感じるようだ。妖怪が登場する漫画は好んで読むし、それらに描かれる妖怪を可愛いとすら言う。それなら、異質な存在が怖いのではなく、何をするか分からぬ、取りかえしのつかなさを予感させる想像が怖いのではないだろうか。それはたぶん、二次性徴を見据える年頃になって、死というものが世の中にあることを、捉えなおしているからではないかと見立てている。やがて自分に来る決定的な変化に対する不安が、重なりあっているのではないかな。

 

 

 

もちろん、これまでだって彼は、死を知らなかったわけではない。葬式や法事を通して、死んだひとが肉体を持って帰ることはないことには気がついていた。彼のするゲームや見るアニメのなかで、ひとが死ぬ場面を見つけたときに、仮想の死と現実の死は違うことを説明しかけたときには、「ゲームと“ほんとう”が違うのなんか当たり前じゃん、そんなの分かってるよ」と即答された。へえ、わたしの空想と彼の現実は違う、と新鮮だったのを覚えている。

 

 

 

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四~五歳のころには、彼は死について知っていた。家族三世代ともう少しの人数で、老人のお見舞いに出かけたとき、はにかんだ表情と弾んだ声で、死んでくおじいちゃん、と彼は声をかけた。たしかに死をむかえようとしているひとに「死に逝くあなた」と声をかけることは死神の所業くらい残酷なことのように思われて、わたしは寒気がしてきた。それでも、ちいさいひとは照れを含んだ顔で微笑んでいるし、言われたほうも「おお、そうだなあ、ほんとうに、そうだなあ」とどこか感心したような声色で応じるのだった。帰りの車のなかでも、そのことを咎めるひとはいなかった。

 

 

 

この血縁の世界でなら、誰もことさらに気にも留めないようなことを、わたしは案じていたの? 世界の知らなかった一面に、いつの間にか片足をつっこんでいることを、彼と過ごすことで気付かされる。このエピソードを、そういうことだったのだなあ、と最近になって懐かしく思いだした。あのとき、わたしは言葉を聞いていたけど、ふたりは言葉よりも非言語的な要素で感応しあっていたのだろう。

 

 

ちいさいひとは十歳になった。かれが成人するまでの十年のことを、十分には知らない世界に、みんなで探検しにいくような日々になるのではないか予感している。