ツキノヤ

日々、地道に落ち着いて育ててゆくことなど。グレーゾーン、「気になるタイプ」の早生まれ新小5と暮らしています。

日記書き・準備室 -1- のっけから夢の話

一月に開設したブログを、放置したまま既に四月。書きかけて書きあがらない日記がその間に幾つか。書いて二日に一辺くらいは更新する練習をしよう。四月だもの。

 

さっき仮眠のときに見た夢が印象に残っているのでメモ代わりに書いておく。その夢のなかで、わたしはどこかの戦場にいる母なのだった。敵は子どもを次から次へと殺している。わたしは現実のわたしとは違うわたしだし、現実とは違う別のこどもを持つのだが、この子を殺されたくないと思っている。そして、周囲の母たち、殺されるくらいならいっそこの手でと、沼に沈めようとしている。

 

その夢の中で想像して、子を敵に殺害される場面が浮かんできた。土埃と血液にまみれて息絶えてゆくまでが3秒くらいで脳裏をよぎっていく。ああ、そうか、それならば、わたしもこの手で? その経過も3秒で想像して、敵に殺害されるのと、自分が殺害するのとを天秤にかける。敵に殺害されるのと、親に殺害されるのとを比較するよりも先に、それを検討したことに愕然とする。いちばん望まないことを、拒絶できないことのように、選択肢のなかに含めていることを自覚して動揺する。それが夢なのだと明晰には気づかないまま、状況に過剰に影響されて自分のことを錯乱しはじめている、と感じる。

 

あたしは、こんなふうで、ありたかったのかなあ。ううん、全然違う。あたしが、ありたかったのは――。そうやって、夢の中で悪夢から醒めたところで、その夢自体も終わった。


    ***

寝ざめがよくなかったので、この夢をレンズにして日々の暮らしを眺めてみることにした。こう、母性の夢なんだろうけど、母であることに伴う影響力と自分の不安とを重ねた視線で子を眺めてる部分は、あの夢ほど酷くにないにしても、ごくごく薄めに表出するのだとしても、ありえるよなー、と。

 

大した要求でないし、世間的に見ても望ましいことの筈だし、靴下を脱いだら洗濯かごに入れてよ、というくらいのことだとしても。靴下が放り出されることもあるのが世の中なのに、そういう世の中であることを受け入れられなくて、「こんな簡単なことくらい出来ないの」と言いたいときの気分など、その範疇かもしれない。